「みんな、なかよし」「仲良くしなければならない」という呪縛
仲良きことは、美しいが
仲良く「しなければならない」
となった途端に、
呪縛になる。
好き嫌いや量も、
全て一律にして
出された給食を全部、
食べ「なければならない」
といった指導に似ている、
と感じる今日この頃。
そんな私は、1年生担任の時 学年目標、思いっきり
「なかよし」
と、掲げていましたよ。
あらあら。
人に対しての好き嫌いを 悪意を持って、公表する とか
あからさまな態度をとる とか
意地悪して、仲間外れにする とかは、
もちろん論外だけど
「なかよし」の強制は
危険だな〜 危険だよな〜
何が、危険かって
感じたかと言うと
「仲良くするべき」
って、一見、美談に見えて
教師とか親とか上司とか
権力がある人が使うと
パワハラにもなり兼ねないし、
たとえ、権力がない場合でも
単なる価値観、
モラルの押し付け。
になるというか。
ルールにすると
教え込みになっちゃって
あれ?楽しくないぞ?
窮屈だぞ。
息苦しいぞ。
って、なる。
※ 重ねて言うと、それと、いじめや仲間外れとは別である
危険だな、と思うのは
それによって
真面目で、
頑張っているような子どもが
責任やプレッシャーを感じて、
我慢したり
苦手だなあ、、
嫌だなあ、、
と思っている自分を
こんなこと思っちゃいけないんだ!
って、責めたりして
自分の本当の気持ちを
殺しているではないか、、と。
そういう子どもが
直接いじめられたりしてなくても
ストレスを感じて
不登校になったりする可能性が、
意外と、多いのではないか、と思う。
いいんだよ!
それは、人間なら、真っ当な感情なんだよ!
苦手だったり、嫌いだったりする人が、
いてもいいんだよ!
いや〜
先生だって、
苦手な人はいるけどね!
でも、あの人キライ!って
周りの人に言って回る必要は、ないよね。
悪口を言って回るのは、違うよね。
それは、相手を傷つけるよね。
失礼だよね。
って、子どもに言ったら
どうなるだろう?
私なら、、それを聞いたら
ホッとするかなー。
我慢して
無理やり仲良くなろうとして
自分を傷つけることもないよね。
と、思うのだ。
それと、人をケアしない。
サポートしない。
無視する。
というのは、
全然違うことなのだ。
この違い。
どうだろう?
微妙なところではあるけれど。
「仲良くするべき」
という、人に対しての何かを
ルールのようにしてしまうと
思考停止になって
そこに、コミュニケーションが生まれない。
人に意地悪して
嫌なことばっかり言う人が、
いたとする。
誰も、一緒に居たくない。
でも、仲間はずれだと騒がれる。
悪者にされる。
「みんな、仲良くするべき」
という、圧力がかかる。
先生からも、
「ダメでしょ。仲良くしなきゃ。」
なんて、言われる。
モラルとルールが、混同される。
仕方なく、表面上は、
一緒のグループになる。
が、そこには、変化するための
なんのコミュニケーションもない。
だから、何も変わらない。
先生たちのTwitterでも、
話題になっていた
「ごめんね」「いいよ」
の、指導も同じことを感じる。
「ごめんね」
って、謝らせて
「いいよ」
って、言わせて
それで、指導が終わったことにする。
謝られても
「いいよ。」って言えなかったら
そんな気持ちになれなかったら
それで、いいんだよ。
すぐにすぐ、その場で
気持ちの整理なんてつかないよ。
許せなくっても、いいんだよ。
そんな話。
そういう話し合いや
コミュニケーションの時間を作り
本当に自分がどう思ってるか
感じているかを
外に出して行くって
確かに、ちょっと際どくて
敏感なところもあり
面倒で
正直、避けたいところでもある。
けど。
本音のコミュニケーションを抜きにして
標語のような綺麗に飾った
ルールやきまりを増やしても
それで、表面上は、
無難に過ごしたように見せても
本質は、何も変わらない。
めんどくさいことや
言いにくいことに
1つ1つ向き合って行くことを
避けていても
目をつむっていても
いつまでも、
本当の
「仲良し」
になんて、
なれるわきゃないっす。
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